昭和50年04月14日 朝の御理解
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
神に一心とは迷いのない事ぞ。心の中に迷いの雲というものが晴れてゆく、迷いの雲が晴れる。真如の月とでも申しましょうかね。そういう心の状態そういうおかげの受けられる信心。それには神の言う事は、千両の金にも替えられないと思うて、それを大事にして行かなければならんと言う事であります。おかげが受けられん筈だなぁと、例えばこの御理解を聞きますと、みんな思うだろうと思うです。
本当のおかげと言うものは、それは神の言う事を聞かんでも、そう大して熱心でなくても、おかげは受けてますけども、千両の金にも替えられないと言う程しのものが受けられないのです。勿論これは金では買えない、御神徳がこもっておる。神の一言にはそういう有難い内容がある。それこそ舟にも車にも積めぬ程のものであります。ですからそれを段々頂いて行っておったら、どういう結果が生れて来るかと言うとです。迷いのない心の状態が開けて来るのです。それこそ雲気一点ない十五夜月のお月様のように。
私は思うのですけれども、自分の心が段々そういう心に近付いて行く。信心とは近付いてゆくと言う事。黒の闇から三ケ月様半月さんという様に、お月様が段々円うなってお出でられるように、自分の心というものが、雲気一点ない十五夜のお月様にも似た様な心の状態が段々開けて来る。それは三ケ月さん位でも、ちょっとホノボノとした明るさがあるのです。その明るさが心の中に感じられる時に、こんな嬉しい事があるだろうかと、こんな喜ばしい事があるだろうかというのが、信心の喜びであり妙境です。
段々それが大きく欠けないお月様の様な心の状態を目指してというか、神の教えを千両の金にも替えられないという頂き方をして行けば、誰でもそうなって行けれるのです。それは、自分ながら、不思議で不思議でたまらないです。第一不平も不足も無くなって参ります。それが完璧と言う事をお互い出来ませんにしても、それを段々三ケ月さんから半月さんと言う様にです。自分の心がそういう心の状態になって行く事を楽しみに、神の一言一言を、大切にして行かなければならない。
神の言う事は途中で落としてしまい。これはとても嬉しい事です。例えば御信者の皆さんの場合にも色々あります。あの人あれだけ一生懸命お参りをして来るのだから、あそこの所をもう一押し、あぁすると良いけれどもと思いますと場合には心が暗くなる様な事もある。特に家族の者なんか、例えば若先生が御祈念なら御祈念に、それこそ私が大切にする時間を五分なら五分でも遅れると、心が落ち着かないイライラする。一番有り難い大事な時にそうである。
それがこの頃おかげを頂いて諦めたというのではなくて、一つも心にかからない様になったです。その心の状態を思う時に嬉しい嬉しい、こんなに有難い事はないです。例えば、この頃、孫にかまけて、家内が、朝の御祈念に出たり出なかったり致します。以前なら、ここから立って行って起こしに行こうごとあった。そんな気が衝動的にそんなものを感じよった。この頃はそれが一つも感じなくなったです。
諦めたのじゃ決してない。何故かと云うとその証拠に、その後に頂く喜びが本当なもんだと言う事を私は感ずるんです。信心するようになって心が豊かになった大きくなったら、絶対それに対する喜びがあるです。やぁ私もおかげ頂いたもんじゃあるなぁと。これを不平にも不足にも、まぁどうした事じゃろうかと思わんで済むと言う事は、何と有難い事であろうかと思うです。だからそれを思うだけではほんなもんじゃないです。
それが思えれる様にそういうふうに、心の中に一つも引っ掛らないおかげを頂かしてもらうと云うものが、本当なものであったら必ずおかげを頂いて、三ケ月さんから半月さんになって行きよる状態が、有難うして嬉しゅうして応えんです。そういう答えが出てくるんですよ。分かったと云う自分のものになったと。けれども私の場合は、若先生がキチッと五時に御祈念を仕えてくれる。家内がちゃんと朝の御祈念に出て来ておる。
その時に、あゝ有難いなと思う所を見ると、実際はまだ本当なものじゃないと言う事が分かるです。若先生が時間を切らした所で、家内が朝の御祈念に出て来ていなくっても、一つも、今まではここを立って起こしにでも行きたいごたる衝動があったり、一寸有難い事を思うておっても、心がイライラするとパッと有り難いものが消えると言った様な、一寸腹立たしいとかイライラする時、有難い心の状態がパッと消えるんです間違いなく。ですから、本当云うと私の心に添うようにです。
家内と若先生の事を、例に取って申しよりますけどです。親先生の心を本当に有難くなられるために、それだけの精進をしてくれれば、もっと有難い訳です。私達の信心がそれ程に、先生の心の中に響くのかと感じたら、これは若先生だけじゃないですよ。家内だけの事じゃないですよ。信者皆さんの場合でも同じですよ。ここの所はうた上にも習うとるてん、まぁそこが分からんじゃろうかと思う様な場合でもそうですよ。
ですからそれが実際に、教えた通りの事がサッサと出来て信心が進んで行っておる。家内がキチッと朝の御祈念に出て来ておる。若先生がキチッと時間を厳守して、御神前に出らしてもらう時に、有難いなぁ嬉しいなぁと思うと言う事は、心にまだ少しは陰りがあると言う事を、自分で悟ります大体同じでなければいけない。それは右左はどうでもよいのであり、同じでなからにゃならんのだけれども、心におかげを頂いて、それがシコリになったり、心がイライラしたりだけはせんで済む様になったと云うだけである。それも本当なものならば、今申します様に本当にそれが嬉しゅうて有難いです。
私は今日の三十四節の所を、神に一心とは迷いのない事ぞと。それは色々と一つの物を買うでもあれを買おうか、これを買おうかと言うて、迷うという様な意味合いでもありますけれども。今日は、この三十四節の、神様の教えを本当に行じ守らせて頂いて、神の一言は千両の金にも替えられないという程しに慎重にまたは鄭重に、それは有難いものとして頂いて行くと言う事が、段々、重ねられて行く内には、研く事も神の教えの中にはあるでしょう。研け研けと仰る事もあるでしょう。
ここにもあるように、心の中を改むるが第一なりと仰る様に、改まると言う事にも本気で一生懸命になるでしょう。信心辛抱の事もあるでしょう。様々の教えを頂いて神の云う事を、一つ一つ自分のものにしていっておればです。段々心の状態が迷いのない、三ケ月さんから半月さんに、そして十五夜を目指して、自分の心が進んで行っておる事が、嬉しゅうして嬉しゅうして応えん。その嬉しゅうしてという答えが出て来なければ、私は本当のものじゃないと思う。
私が例えば家内と若先生の事を、例をもってそれが全然遅うなろうが、出て来ておるまいが心に掛からん様になったと言う事をです、けれども出て来ておるとあゝ今日は出て来ておる有難いなあと思うだけです。まだまだ本当なもんじゃないなという事が分かるでしょう。それを思うという事は、出て来ん時には、まだ陰りがあるなという事になるのです。ただイライラ有難いものが消えると言う事にはならない。けれどもまだまだ陰りがあると言う事になるのです。
皆さん本当に自分の心が、有難いを目指して信心させて頂いておる。その有難いというものが段々本当なものに育って行くと言う事。例えば色んな子供達なら子供達の上に、目に余る様な事を、見たり聞いたりする場合があります。それでもどうした奴じゃろうかという心が起こらないというのです。ニコニコしておれると言う事です。本当にそれは有難いですよ。それを煎じ詰めて行くと、どう言う事になるかというとです。お取次を頂いて起きて来る事みな良い事。
お取次を頂かずして起きて来る事、良い事悪い事みな悪いと云う。お取次を頂いていかにもそれが良い事の様に見えておっても、お取次を頂かずしての事は、良い結果にはならないという事。お取次を頂いての事ならば、目の前には困った事のような状態であってもです、それは必ず良いおかげになると言う事。例え子供達の上に、目に余る様な事があってもです。日々お取次をさせて頂いて、彼の事を彼女の事を願っておる。願っておってのそれですから、結局はそうなるのです。けどもそれをそうと信じられる心の状態の進展と云うものがです。このご理解三十四節には説いてあると思うです。
お取次を頂いてからのことじゃけん、間違いはなかろうかとか。必ずおかげになるだろうと思うと言う事も有難いですけれども、それが愈々本当なものに、どの様に目に余るものを見ても聞いても心が動揺しない。お取次の働きの中に起きておる事であるからと、それを思えれるという事に結論される様に思います。一心に、心の中に迷いがないと言う事は、そう言う事だと思います。
どんなものを見ても聞いても心が動揺しない。そこの所に不平不足の様なものが起きて来ない。そういう自分を分からせて頂く時に、愈々信心を本当なものにして行かなければおられん。それこそ神の一言は千両の金にも替えられないと思う様な慎重な心。それを鄭重に頂いて行くと言う事が、楽しうなって来る、有り難うなって来る。そして自分の心が、いよいよ真如の月を目指して、信心は進めて行くもの。
それこそ十五夜の晩が、煌々として、お月様が照り輝いてござる時には、昼を欺くような明るさがある様に人間です、人間だけれどもですこういう心の状態が、神様ではなかろうかと思われる様な心の状態も開けてくるのです。金光様の御信心は、どこまでも生神を目指すと云われております。ですからこれが段々それに近付いて行く。せめて三ケ月さん位な明かりはお互い頂きたい。教えを頂いておるけど、教えを自分のものにして行こうと言う精進しないところにです、心はいつも暮れの闇。
だから不安がある。だから心配なのです。
不安である、心配である時には、自分の心の中に、その三ケ月様の明りすらもない時だと言う風に悟せて頂いて、本気で、神の一言を千両の金にも替えられんという姿勢、頂き方をもって、おかげを頂いて行っておりますと、その中には磨かなければならんことも教えて下さってあるでしょう。改まらなければならんという事も教えて下さるでしょう。信心のあらゆる知識を、御教えの中に下さるでしょう。そういうおかげを、段々頂いておると、神に一心と言う事になって来る。
神に一心とは迷いのない事ぞと。心の中に迷いの雲が払われて来る。迷いが無くなって来る。どんな問題があっても、心が明るいですから怖いと言う事がない。不安というものが無くなる。真っ暗な所にあるから、どこからどういう物が飛び出して来るか分からんと思うから、不安なのです。だから、そういう心を目指さして貰うて、信心の稽古はさせて頂くもんだと思うですね。どうぞ。